実は明日6日、私の何回目かの誕生日です。
数日前にスタッフから、
「5日の昼休みにお時間をいただける様でしたら、しばらく会議や打ち合わせをしていないので。」
と言われて私の心拍数はヒューと上昇しました。コロナにかこつけて最近全くきちんとした打ち合わせをしていませんでした。どんな問題が鬱積しているのか?(大変だ〜)と心の中で焦りまくりでした。いままでは打ち合わせの前になんとなく話し合う内容を日常の会話に含んで予想出来ていたのですが、今回は全くヒントも無く……日に日に、私は大きな問題を見過ごしていたのでは?と不安が大きくなっていきました。そして運命の日、13時にと言われていたのですが……電気を落とした部屋に灯を灯したバースデーケーキを持ったスタッフが現れて、サプライズでした。私はこの時に大きな感謝と小さな反省をしました。いつも全体が見えていなくてごめんなさいと。この後、更にスワロスキーの私の好きなカラーを選んだオリジナルのプレゼントもいただきました。私の好きな色も平常からよく観察しているんだなと愕きました。本当に有り難かったです。
実はここ数年血の繋がった家族とは互いの仕事の都合や今回のコロナの事で、電話やメールで連絡は取り合うものの顔は合わせていません。医師の両親からは小さい頃から
「親はいつかは死ぬ。たとえ親が危篤と聞いても、仕事があり助けられる命が目の前にあるならそれを優先しなさい。弱って死に逝く親の顔を見て何になる。我々は一番良い時の思い出を持っている。」
と繰り返し教え込まれていました。私はそんなに冷徹にはなれず小学校の低学年の頃は何回かベソをかいていました。死ぬ死ぬと言っていた両親は何故か今でも健在ですが、医者になるということの覚悟は幼い頃から徹底して教育された気がします。だから今こうしてなんとか独り立ちして生きていられるのです。おそらく、子供の頃のスパルタな生き方の教育が、泣き虫(だったらしい)の私を一人前に後押ししたのだと思います。そうでなければ、糸の切れた凧のように放浪の旅をしている自由人だったかもしれません。親には大変感謝しています。
しかしですね、ある時に私は親に”どうして医者になることを強制したのか”という質問しました。その答えが今でも忘れないですが
「そりゃあ特殊な優れた才能でもあれば心配ないからあれこれ言わなかったけれど、何の才能も見いだせなかったし、器量もなかったから結婚もできないだろうし、手に職をつけとかないと行き倒れになると思ったから。」
とこれまた強烈な答えが返ってきましたので、思春期の私としては
”仕方ない。人生は厳しいのだ”と自分に幾度となく言い聞かせました。ことある如くに「出来損ない。」と言われていましたので、これもある年齢になるまで、いや今でもトラウマになっていると思います。そんな両親の元ですくすくと育ち、コロナ禍の中でもそれなりでいられるのは、親の教育のおかげだと思います。ただ、そのことを親に言うと
「あれ?そんなこと言ったかしらね?やっぱりボケてきたのか。ははは。」
と他のことは詳細にしっかりと覚えているのに記憶がないと主張します。
「自分の都合のいいとこしか思い出せなくなるのが、ボケの始まりと言うじゃない。」
まあ、見逃しましょう。あと何年、もしかしたら突然幕が下りりこともあるかもしれません。それは親だけでなく自身にも言えるので、一日一日が大切な時間です。それと共に、日々一緒に家族のように過ごし戦ってくれているスタッフにただただ感謝です。