今日は、健康診断の仕事で富士山の近くに来ています。久々の出張で自家用車で行くか迷ったのですが、最近は高速も結構混んでるのでブログも書けますから新幹線を選択しました。 車内で換気などの配慮についてのアナウンスがありました。指定席は3割程度の埋まり具合で例年の夏の観光シーズンにしてはやはり寂しいものがありました。この時期には、外国人のツーリストがなにが詰め込まれているのかと思うくらいの巨大なトランクやナップサックを1人でいくつも持って通路をはみ出して置いたりするので歩きにくいことがしばしばありましたが、中国人のけたたましいお喋りもなく静かでした。こうなると逆になんだか物足りないような気もしてわざわざスマホで雑音のようなヒップホップの音楽を目一杯ボリュームを上げて聴いてしまうのでした。外はあいにくの薄曇りで、指定席を山側に取ったのですが雄大な富士山の全景は見られませんでした。新幹線降り立つと蝉の合唱がお出迎えでしたが心なしか空気がひんやりとして秋の気配を感じました。タクシーに乗って30分、外からの日差しとマスクで熱気が籠ることで頭がボーッとしてうつらうつらと寝入っていました。
ふと、起きて辺りを見回すと、灼熱の太陽に白い砂浜、椰子の木が生え揃っていて舗装されていない道路を走っている車に揺られている自分に気付きました。白昼夢とでも言いますでしょうか、数年前に行ったカリブの海が目の前に広がっていました。あまりに毎日が忙しくて行ったことすら記憶から飛んでいましたが、アメリカのダラスを経由してカンクンに入り、そこから3時間車でただひたすら真っ直ぐ走るだけで最後の1時間は細い半島を走っていたので両側が海でした。時折土埃する路面が濡れていて、蟹の親子が道を歩いていたり、見たこともない極彩色の美しい鳥が羽を広げてフロントガラスの前を優雅に横切ったりで、勿論コンビニなど店一軒すらありませんでした。
知り合いに聞いて決めた場所は、まるで岩合さんの写真集に出てくるような蒼い海と空で敷き詰められていました。すぐそばには野生のペリカンが砂浜の上を歩いていて以前から大親友だったかのように一緒にお散歩をしたりと自然に繋がっている事を感じました。陽が傾くと夕焼けの空は全ての美しい色を手繰り寄せて編み込んだような複雑な色に刻一刻と変わりそれだけでずっと観ていられる美しい映像絵巻でした。夜は夜で、星くずが頭に落ちてきそうなくらい近く、南十字星を中心に空に星があるというよりも星があってそれに空がくっ付いているという感じでした。海は遥か彼方まで透き通って遠浅でヒトという生き物の恐さを知らない魚たちが足元で悠々と泳ぎ回っていました。
「お客さん、着きましたよ。ここで大丈夫ですか?5140円になります。」
と唐突に言われて現実の世界に引き戻され目を擦ると、いつもの風景が見えました。以前も来たことがある健康センターで
「あっ、先生おはよう御座います。お久しぶりですね。」と話しかけて来た看護師さんにつられてここ数ヶ月のコロナ禍であった事を思い思いに話し始めました。
気の置けない仲間に会うのはとても嬉しい時間です。でもたまには日常を忘れるくらいの別の場所に身を置いてみたいですね。このコロナで遠方にはなかなか行きづらくなりました。いつかまたあの澄んだ海のある景色のような所に行ってみたい、そういう自由のある状態に戻れたらと思います。あまりにも急激に環境が変わりすぎて時々これが現実なのか戸惑う事もあります。
しかし、荘子の教えでは、夢が現実か、現実が夢かなどは論ずる意味はなく、いずれにしても己であることに変わりはないので、いずれをも肯定して受け入れてそれぞれの場所で満足して生きれば良いとしています。また、自分と物との区別のつかない物我一体の境地をも唱えています。
要はこの状況で満足する事を感じられなければ、例え今よりも良い状況になろうともいつまでも幸せを感じることは出来ないということでしょう。