「あれが、恵美が恨めしそうに見とった柿の木じゃ。」
祖父は、診療所の格子窓の隙間から見える華奢な木を顎を心持ちあげて示した。
小さい頃から幾度となく母から「もう少しで柿の木に首をつって一家心中するところじゃった。」と聞かされていた。美夏はそちらを向くと
(意外と柿の木は数十年経ってもあまり大きくならんのか。いや、縮んだかな?)
と思った。どう見ても、自分一人でもぶら下がれば簡単に折れてしまいそうだった。それに木の高さも大人一人分と少しくらいだ。
(はて、本当に首をつって死ねるだろうか?)
と密かな疑問がわいた。
美香がまじまじと木をながめている間、
祖父は机に肘をついて手の平で顔を撫でまわしながらあくびをしていた。
首を横に何度も振って頭をぐるぐる回してから伸びもした。
そうしてから、あっさりと言った。
「あのくらいの木じゃあ無理じゃな。あれぐらいじゃったら、まあなんとか。」
と門近くにある、この家で一番立派な松の木を目を細めて見た。
が、あんまり関心がないようで、
「少し冷とおなった。」
と手元にある飴色をしたトーストをつまみあげた。
祖父の日課は、明治生まれにしてはモダンであった。
ベットで目覚めると、まず渡り廊下の向こうに建て増しした棟へ行きシャワーを浴びる。唯一容姿で不満を持っている禿げ頭に祖母がつかうレモン乳液を拝借して丹念にすり込む。今までに外国製のローションなどをいくつか試したそうだがこれが一番いいという。
週に一度は椿油とゆで卵でマッサージをしながら手入れをするそうだが、実際には見たことはなかった。ただ、かなりおしゃれで身だしなみには、ちとうるさいのは確かであった。
そのあと土間に行き、食パンをトースターに入れ、待っている間に雪平鍋で牛乳を温め朝食を自ら用意する。パンがこんがり焼きあがると雪印のバターをぬり、茶碗にいれたホットミルクに浸して食べる。毎朝同じメニューだ。
自分が訪れると、いつも二人分作ってくれた。
‟男子厨房に入らず”などと教育されたにもかかわらず、使った食器も自分で洗っていた。
学生時代の趣味はテニスと玉突き、祖母と婚約した途端に当時では珍しく手をつないで活動写真を見に行くという、とてもハイカラな人だった。
背が高く、大陸的な顔立ちである祖父に祖母はぞっこんだった。
20代後半で毛が薄くなり始めたそれ以外には全く文句がなかった。
「女学校で、お裁縫しか取り柄がなかったからねぇ。器量もあまりよおなかったから、お嫁にいけるかと心配じゃったけど。おじいちゃんが、『ぜひ・・・』と言ってきてなあ・・・」
とよく祖母にのろけられていた。
親が決めた相手でもこんなに幸せと思える結婚があるんだとしみじみ思った。
しかし、口さがない親戚はねたみ嫉みもあってか、法事のときなどに祖父が席を中座した際
「大阪の専売局の病院長じゃった頃は、薬屋がな、菓子折りにこころづけを忍ばせとるから、毎晩芸者をあげて遊んどったそうじゃ。」
「そのうち病気でももろうてな、自分が医者にかからんとおえんようになるんじゃねえかな?」
「あんたなぁ、子供の前でそげんえげつねぇことゆうとってえんかな。」
「まだ、小学校にあがったばかりで、どんなことをゆうとるかもわかりゃあせんがな。」
と寿司桶から中トロやいくらをつぎつぎに素手でつまみあげながら、美夏の横で話していた。