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小説「柿の木」1章

「先生、予約の患者さんが遅れるそうで、先に休憩に入ってください。」
スタッフが声をかけてきて、美夏は手を止めた。少し背伸びをしてから、備え付けてある電気ポットでコーヒーをいれる。窓の外の向こうには雲一つない青空が広がり、ビルの最上階までくっきりと見ることが出きて窓ガラスが陽光を眩しく反射している。
(今日も暑くなるのかな。)
診察室はすでに寒いくらいにクーラーがきき過ぎているため、スタッフに弱めるよう指示を出す。
夜、美夏はクリニックを出る前に防塵マスクを着け、折りたたみ式の自転車を奥から出してきた。3月に起きた震災以来、ネオンサインは自粛され公共のライトアップも中止されているため、灯の点いていない東京タワーを背にしてゆっくり自転車を漕いでいく。
最近の東京の夜は瞑想しているかのような静かな街に見えた。東京湾に近づくと潮風の香りが強くなってきた。
(あの日もこんな香がしていたなぁ。)
生ぬるい風が脳を刺激したのか、薄暗い照明に照らされたアスファルトにさーっと郷里の風景が広がった。

 
 恵美は庭の柿の木をもう一度じっと見つめた。
高さは大人の2倍くらいで、枝はあまり立派とはいえなかった。
しかし、小学生の彼女が手を延ばしてやっと届く一番下の枝は人一人の重みくらいは耐えられそうだった。木のてっぺんには、さっきから大きなカラスが1羽止まっていて漆黒の翼を自慢げに羽ばたかせながらこちらの様子を伺っていた。
その木には毎年秋になると鈴生りに実がついた。が、美味しいとはいえないため誰も収穫せず、晩秋には、一面に橙色甘酸っぱい果肉が広がり、まるで内蔵をさらしているかのようだった。
さして気にもしていなかったこの木に自分の人生が委ねられるかもしれないと聞かされた今は、この木の枝ぶりが気になって仕方なかった。

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